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愛の本質は? (FPベンゴシ)

みなさん、今日は。

札幌のFPを中心としたお金と暮らしの専門家ユニット なないろ福円隊

FPベンゴシです。

 

さて質問です。

「愛とはなんでしょう?」「愛の本質は?」

 

愛は動詞である。 今日はこれを述べたいのです。

これってどういうことでしょう?

 

 

ふふふ、今日は、愛について書くという、大胆なブログです。

 

 

なによっ! 恥ずかしくないよっ!

 

いいじゃん、愛について語ったってさ!

 

愛ってなんだろう?って考えたことないでしょ!

たまにはこ~ゆ~こと考えるのもいいのよ!

興奮してすみません。σ(^◇^;)  さて・・・ このブログを書くために、福円隊メンバーに、

「愛とは?」 と、質問してみました(皆さんも考えてみましょう)

 

  その人がかっこよくなくても一緒にいてはずかしくないこと(M)

  忍耐(F)
  与えるもの(F)
  見返りを求めないこと(U)
  カネ(M)
 
これが、我が福円隊メンバーの答でございます。
 
最初は、「ほほ~なるほど。」と思いましたね。
  愛があるから、恥ずかしくないと。
恥ずかしさとか全く感じずに、その人を受け入れられる、そいうものが愛ってことですかね。
 
忍耐と与えるもの、というのは、模範的な回答でしょうか。
  愛は耐えることである。
  愛は与えるものである。もらうものではない。与えてこそ、愛。
確かにそうだよね。
多数の方が、ピンとくるのではないでしょうか。
 
最後はなかなか考えますね。
  カネ=愛
もまた、この世の真実かもしれません。
 世の現実を直視している回答でしょうか。

 

 

 

誰だ、お前は・・・・・・・・・

ちなみに、明鏡国語辞典では、愛ってこうなっています。

「価値あるものを大切にしたいと思う、人間本来の温かい心。」

 

大辞林では、「親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。 ある物事を好み、大切に思う気持ち。」などとありました。

 

愛って、実に多義的で、本当のところ、愛とは?という質問に解答はないのかもしれません。

愛は、人が死ぬまで、その実体・本質を追い求め続けるべきものなのかもしれません。

 

私は、今日は、「愛は動詞である」、という部分をお伝えしたいのですよ。

かなり前にこの文章を見たのです。

「愛は動詞である」という言葉に、衝撃をうけましてね。

そのときは、衝撃を受けた、ということで終わったんですが、最近、この言葉が、じわじわと心に沁みてきているのです。

 

ところが、はなしはここでいきなり変わるのでございます。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

動物は眠くなったら寝ますね。食べたくなったら食べる。

人間は、自分の行動について、自分の意思で制御して、行動を選択できますね。

いってみれば、動物は反応的に生きており、人間は主体的に生きることができるといえます。

 

ところで、人間もこういう場合があります。

 

かったるい → や~めた (反応的)

 

疲れた~眠い。 → 私にはこの勉強は必要だ! →勉強しよう (主体的)。

 

実は、この話しはスティーブン・R・コヴィー、「 7つの習慣 」からいただいている話しです。ご存じの方も多いでしょう。

 

ちょいと引用しましょう(ちなみに、7つの習慣は近時「完訳版」が出ていますが。ここでは、従前から本から引用します86頁~87頁)

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「人間の本来の姿は主体的なものである。

  だから、意識的な選択にせよ、無意識的な選択にせよ、もし自分の人生が今までの条件付けや周りの状況にコントロールされているとすれば、

  それはそうしたものに主導権を譲った結果に他ならない。

 

 自分の人生に対する責任を放棄すると、反応的になる。

 例えば反応的な人の多くは周りの物的な環境に大きな影響を受ける。天気が良ければ気分もよい。

 (略)反応的な人は社会的な環境(社会の天気)にも大きく影響される。

 人が親切にしてくれると気分がいい。そうでないときは不機嫌になったり落ち込んだりする。

 反応的な人の精神状態は他人の行動や言葉に左右され振り回されることになる。

 

 『自分の価値観に基づき行動する』ことは、主体的な人のもっとも基本的な性質といえる。

 反応的な人は『その時折の感情、常況、条件付け、環境などに左右される』が、

  主体的な人は深く考え、選択し、内面化した価値観に基づいて自らを支配するのだ。

 だからといって、主体的な人が、天気などの物的、社会的、心理的な刺激に影響されないかというとそうではない。

 しかしそれに対する彼らの反応は、価値観に基づいた選択なのである。」

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これ、まあ、そうだよね、って思えるでしょうか。

主体的に自己の行動(反応)を選択してこそ、みずからの人生を支配し、心を落ち着かせて生きることができるんだろう、って私も思います。

 

さて、また話しを強引に戻します。

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ある男性が相談します。

「もう、愛がないんです。愛情を感じないんです。妻とはうまくやっていけません。どうしたらいいでしょう?」

 

これは、先ほどの話し、人は自己の反応を選択でき、それこそが主体的な生き方であって、人はそうあるべきだ、という考えからすると、反応的な生き方になるんでしょうね

 

 

 7つの習慣 」でのスティーブン・R・コヴィー氏の回答はこうです。

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コヴィー 「奥さんを愛しなさい」

男性   「ですから今言ったでしょう。その気持ちはもう無いって」

コヴィー 「だから、彼女を愛しなさい」

男性   「先生はわかっていない。愛という気持ちはもうないんです」

コヴィー 「だったら、奥さんを愛すればいいんです。そうした気持ちがないのだったら、それは奥さんを愛するとても良い理由になりますよ。」

男性   「でも、愛情を感じないとき、どうやって愛すればいいんですか」

コヴィー 「愛は動詞である。愛という気持ちは、愛という行動の結果に過ぎない。だから奥さんを愛しなさい。

       奥さんに奉仕しなさい。犠牲を払いなさい。彼女の話を聴いてあげなさい。感情を理解してあげなさい。

       感謝を表しなさい。奥さんを肯定しなさい。そうしては見てはいかがですか」

 

世界中のすべての偉大な文学において「愛」は動詞として登場する。

反応的な人は、愛を単なる気持ちとして捉えがちである。

なぜなら、反応的な人は感情や貴道に支配されているからである。

往々にして映画やテレビの脚本は、人に責任はなく、その時折の感情で動くしかないと、私たちに教えている。

しかし、映画の脚本を現実は違う。

もし行動が感情に支配されているとするならば、それは私たちが自らの責任を放棄し,そうさせたからに他ならない。

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確かに、テレビとかでは、

愛という強烈で強い感情・気持ちが、その人に命を捨てるほどの行動をさせている、というような脚本になっていることが多いですかね。

    気持ち・感情としての愛→行動

 

愛に動かされて、普通の人ができないような行動をする、っていう構成が人を感動させているように思います。

みんな、それに憧れる。

 

しかし、憧れる、ってことは、そのような愛には巡り会わないってことの裏返しですよね。

ものすごい行動を起こす原動力となるような強烈な愛は、偶然にしか巡り会わないのです。

 

これは、冷静に言ってしまうと、偶然に支配されている話しです。

みな、夢見ているのです。

このような意味での愛を夢見て、現実の生活で感情としての愛を求めていると、

「夢見果テリ」にってしまうことが圧倒的に多いでしょうね。 

再び、「 7つの習慣 」でのスティーブン・R・コヴィー氏を見ましょう。

 

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主体的な人にとって、愛とは動詞である。

愛は具体的な行動である。

 

母親が新しく子供を世に送り出すのと同じように犠牲を払うこと、自分自身を捧げることである。

愛を勉強したければ、他人のために(特にそれに報いてくれない相手のために)犠牲を払う人たちを見るとよい。

子供を持つ親であれば、犠牲を払って育てた子供に対してどれだけ愛を感じるかよくわかるだろう。

 

愛は行動によって具現化される価値観である。

 

主体的な人は感情を価値観に服従させる人である。

 

愛するという気持ちを失っているとすれば、それを取り返すことができるのだ。

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愛の本質部分は行動面である。

さて、私にはこれが正解だとは断言できません。

これはきわめてキリスト教的な愛の捉え方で、日本人には合わないよ、っていう意見も有りです。

 

皆さんにとって、愛の本質は何でしょうか?

 

 

 

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